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板橋区   
相撲取りにはなれないてんで断わられた。仕方がないから一分の金をふところに入れまして京橋を出て板橋から志村。戸田川という大きな川がございます。
 (三遊亭圓生(6) 「阿武松」)
  飯島友治・東大落語会編,『圓生全集』 第八巻,青蛙房(1962)

地点名 この1題・登場回数 位 置 備 考 写真と撮影年
板橋 いたばし 四宿の屁(青圓生11:14) など 48件26題 (圓朝9件, 東京39件) 板橋区板橋など → 北村辞典.中山道の最初の宿で,四宿の一つ.板橋区で落語に出てくるのは,中山道沿いのスポットと「乳房榎」の赤塚だけ.石神井川に架かる板橋は1972年の架けかえだが,木橋を模した模様がつけられている.写真は最後まで残っていた妓楼の遺構で,赤塚の郷土資料館前に移設されている.用例は,四宿の遊廓でのおならを題材にしたオムニバス小話「四宿の屁」.小職のおならをしかった花魁が,自分の方がもっと大きなおならをしてしまい,宴席から出て行く.
"品川、新宿、板橋、千住、これが江戸の四宿でございます"(四宿の屁)
遊廓新藤楼の玄関 2011
板橋:平尾 ひらお 阿武松(青圓生08:05) など 3件1題 (東京3件) 板橋区板橋2,3あたり → 北村辞典.板橋宿の入り口.川越街道を西へ分ける.続いて仲宿,板橋をわたって上宿と続く.板橋宿平尾宿脇本陣跡の碑がある.平尾宿が出てくるのは,「阿武松」の用例のみ.相撲をクビになり失意の長吉が投宿し,一世一代,決死の大食いをはじめる.
"とって返しまして板橋の平尾、橘屋善兵衛という旅籠へ泊まりました"(阿武松)
板橋宿平尾町脇本陣跡碑 2009
板橋:氷川神社 ひかわじんじゃ 縁切榎(柳家小満ん口演用「てきすと」 33, てきすとの会 (2019)) 板橋区氷川町21 圓朝原作には出てこない地名.縁切榎に備えた願文を,年に1回氷川神社で炊き上げるという説明.板橋宿の鎮守で,細長い参道を抜けると,写真のように右手に富士塚がある.
"一年に一遍、近くの氷川神社で焼いて貰うンだそうです"(縁切榎)
氷川神社富士塚 2019
縁切榎 えんきりえのき 縁切榎(角川円朝4:05) など 6件4題 (圓朝4件, 東京2件) 板橋区本町18 → 北村辞典.中山道沿い.この榎の皮を削って相手に呑ませると縁が切れるという俗信があった.榎が元あったところとは,中山道をはさんで反対側の角地に敷地が設けられている.第六天が祀られ,伐採された2代目榎の幹も展示してある.楽宮降嫁の時には榎を避けて通り,和宮降嫁の際には榎を菰で覆いつくしたという.家治正室五十宮の時は避けたともあるが,"北村辞典"には通って早世したとある.婚姻が寛延3年,死亡が明和8年,決して短くはない.
"車に乗って板橋の縁切榎木の、焼けてしまってもその株が残っております"(縁切榎)
縁切榎 2009
岩の坂 いわのさか 五拾両中仙道(青也沢田一矢:1) 1件1題 (東京1件) 板橋区本町 縁切榎前を北へ上る坂.縁切榎にちなみ,"いやなさか"とも呼ばれたりした.傾斜ははっきりせず,標柱等はない.沢田一矢の新作落語に登場するのみ.中山道から鉄道へ人の流れがかわり,このあたりは貧民街になっていた.戦前のことだが,口減らしのための赤ん坊を買っては殺すという,"岩の坂の貰い子殺し事件"で世間を騒がせたりもした.
"縁切り榎は、今も板橋本町という旧中山道の岩の坂に残っております"(五拾両中仙道)
     
志村 しむら 阿武松(青圓生08:05) など 4件1題 (東京4件) 板橋区志村付近 → 北村辞典.板橋宿から戸田への道中付け.立場茶屋があった.中山道,日本橋から3里めの一里塚が残っている(国史跡).都内には別項の西ヶ原一里塚とここだけにしかない.
"一分の金をふところに入れまして京橋を出て板橋から志村"(阿武松)
志村一里塚 2009
戸田川 とだがわ 阿武松(青圓生08:05) など 5件2題 (東京5件) 板橋区舟渡あたり 戸田付近の荒川.「阿武松」の小車こと長吉が身を投げようとしたが,青砥左衛門尉よろしく天下の通用金を捨てることのもったいなさに思いとどまったところ.渡船場は今の戸田橋のやや下手で,川の両側に碑,戸田市側に説明板がある.
"戸田川という大きな川がございます。今は鉄橋ですが昔のことで渡船です"(阿武松)
戸田川渡船場碑 2008
戸田の河原 とだのかわら 戸田の渡し(お紺殺し)(三一正蔵芝居噺:02) など 3件3題 (東京3件) 板橋区舟渡あたり こちらは「籠釣瓶」の発端.佐野次郎兵衛(次郎左衛門の父)が江戸から故郷に戻る途中,河原の蒲鉾小屋に住む女に金をめぐむ.女はもとの女房の江戸節お紺で,旧悪をなじられてとうとう女を斬り殺してしまう.戸田の河原は雪でございます…,で余韻を残して終わる.
"戸田の河原まで来るってえと、これは宿の主人が空模様があやしいといった通り、チラチラ白いものが落ちてきた"(戸田の渡し(お紺殺し))
戸田川河川敷 2011
赤塚 あかつか 怪談乳房榎(角川円朝1:02) など 4件1題 (圓朝4件) 板橋区赤塚 → 北村辞典.松月院門前にあった塚に由来する.土地の人は祟りをおそれ近づかなかったという.「乳房榎」の終盤の舞台になる.ここまで噺が進まないと,演題の乳房榎が出てこない.写真は赤塚の氷川神社参道にある巨木なケヤキ.洞になっていて,圓朝の乳房榎のモデルの一つという.碑文には,"樹令千七百五十年 赤塚怪談乳房の いのきで知られてる 赤塚乳房大神"とある.
"赤塚と申します地名は昔高位のお人の墓があった所ゆえ、あらはかと申しましたとも、また赤塚右近、同じく蔵人などという大名が住んでおりました所ゆえ赤塚と申すとか"(怪談乳房榎)
赤塚乳房大神 2011
松月院 しょうげついん 怪談乳房榎(角川円朝1:02) 1件1題 (圓朝1件) 板橋区赤塚8-4 → 北村辞典.曹洞宗万吉山松月院.乳房榎のある寺として描かれる.武蔵千葉一族の菩提寺.康正2(1456)年,戦いに敗れた千葉自胤は市川城から赤塚城へ逃れた.中央にある五輪塔が千葉自胤の墓といわれている.徳丸ヶ原で大砲を使った洋式調練を行った高島秋帆の顕彰碑がある.
"榎のございます寺は万吉山松月院と申して、禅宗でただいまもって歴然と残りおりますが"(怪談乳房榎)
松月院千葉一族の墓 2011
乳房榎 ちぶさえのき 怪談乳房榎(角川円朝1:02) 1件1題 (圓朝1件) 板橋区赤塚8 榎の瘤からしみ出す樹液が乳の病に効くというので,「乳房榎」登場人物のおきせが参詣する.しかし祟られた患部は悪化し,苦しさのあまり刃物でえぐると鳥が飛び出すという恐怖シーン.四代目乳房榎(1985年移殖)と記念碑(1986年建)が赤塚の松月院境内にあった.今は,門前に移設されている.圓朝の創作した噺の真偽はご自身で判断を.なお,実直な正介のモデルは実在し,子孫が健在とのこと.
"榎の洞から乳の出ました事も昔の事で、この乳をもって孤児を育てたという事が出ておりますそうでございますが、榎のございます寺は万吉山松月院と申して"(怪談乳房榎)
怪談乳房榎記念碑 2011

掲載 051012/最終更新 210801

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