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荒川区   
 千住の小塚ッ原に、女郎屋がございまして、ここをこつと申します。小塚ッ原ァ略してこつ。ここィ若松屋という女郎屋がありまして
 (林家正蔵(8) 「わら人形」)
  東大落語会編,『林家正蔵集』 上巻,青蛙房(1974)

地点名 この1題・登場回数 位 置 備 考 写真と撮影年
真崎稲荷 まっさきいなり 木の葉狐(講昭和戦前2:11) など 3件3題 (圓朝1件, 東京2件) 荒川区南千住3 → 北村辞典.かつては,石浜神社の境内に独立した社殿があった.今は石浜神社本殿の末社相殿となっている.今は,ガスタンクの立ちならぶ落ち着かない風景だが,かつては,吉原にも近く,田楽豆腐の茶店が有名な行楽地だった.石浜神社境内には鶏の姿の浮き出た金鶏石などがある.「紋三郎稲荷」で,目的地をきかれたお稲荷さんのお使いが,"王子真崎九郎助なぞへまいろう"と答えるセリフは,個人的には最高に愉しい.
"それから太郎稲荷、真崎稲荷、玉姫稲荷、袖摺稲荷という風に、諸方廻って参りますので"(木の葉狐)
真崎稲荷 2021
箕輪新町 みのわしんまち 唐茄子屋(講明治大正7:57) など 2件2題 (東京2件) 荒川区南千住2 → 北村辞典.これによると下谷通新町のことと推定している.南千住の南にあたる.もう1件の用例は「偽稲荷」(上方落語の「稲荷俥」)になる.
"これから箕輪新町へまいりまして、貧民を助けて、それが為に勘当が免れましたという"(唐茄子屋)
     
浄閑寺 じょうかんじ 酢豆腐(騒人名作09:04) など 4件2題 (東京4件) 荒川区南千住2-1 → 北村辞典.浄土宗浄閑寺.吉原遊女の投げ込み寺として知られる.総霊塔の下には無数の女郎の骨があるとか."生きては苦界死しては浄閑寺"はあまりに哀れなセリフ.永井荷風の文学碑もある.人気絶頂の時に進駐軍のジープにはねられて死んだ三遊亭歌笑の塚は,武者小路実篤の筆になる.
"三の輪の浄閑寺は申すまでもなく傾城遊女などの墓があります寺でげす"(酢豆腐)
浄閑寺三遊亭歌笑塚 2006
小塚原 こづかっぱら 真景累ヶ淵(角川円朝1:04) など51件25題 (圓朝14件, 東京37件) 荒川区南千住 吉野通り(コツ通り)両側,回向院周辺にあたる.小塚原の刑場で遊所でもあった.首切り地蔵は延命地蔵が本名で,処刑者を弔うため寛保元(1741)年に建立された.日比谷線の車窓からよく見える.「真景累ヶ淵」の新吉は,駕籠に乗って羽生村に向かうが,どうしても駕籠が小塚原に着いてしまう.そこで,兄の新五郎の捨札を見つけ,獄門にかけられたことを知る.
"この森が見えるのは橋場の総泉寺馬場の森だろう、して見るとここは小塚ッ原かしらん"(真景累ヶ淵)
小塚原首切り地蔵 2005
こつ こつ 今戸の狐(筑摩古典06:08) など 30件10題 (東京30件) 荒川区南千住 → 北村辞典.千住宿の大橋以南で,小塚原を略した呼び方.同じ場所を指す,南千住や,それを略した南千(果報の遊客)の用例もある.小塚原の女郎あがりの女房のことを,"コツの妻"と呼ぶのは「今戸の狐」の仕込みになる.西念坊主の死に金をだまし取る,「藁人形」のお熊もコツの女郎.南千住駅から素戔雄神社にかけての街道は,コツ通りと呼ばれる.表示はなくなったが,コツ通り商店会の広報板は,何枚も残っている.
"どういう訳でこつの妻(さい)かッてェと、こらァ千住(こつ)と申しますから小塚原"(今戸の狐)
コツ通り商店会広報板 2021
小塚原:石碑 せきひ 五人小僧噂の白浪(大川屋 (1892)) 荒川区南千住5-34 小塚原刑場に建っていたひげ題目碑.今も,南千住駅前の浄土宗延命寺の境内に残る.
"南無妙法蓮華経と七字を彫り付けた石碑(いしぶみ)が立って"(五人小僧噂の白浪)
小塚原の題目碑 2019
回向院(小塚原) えこういん 善悪草園生咲分(牧野惣次郎 (1885))など 荒川区南千住5-33 小塚原の回向院.本所の回向院の分家にあたる.刑場に近く,著名人の墓が多い.写真は,「天保六花撰」の登場人物,直侍こと片岡直次郎の墓.ほかにも,吉田松陰(松陰神社にも),橋本左内といった正統派のほか,腕の喜三郎,高橋お伝(谷中墓地にも),鼠小僧(本所回向院にも)ら,講談実録で活躍した人々の墓や,『解体新書』ゆかりの観臓記念碑などがある.
"千住なる回向院の別院へ一基の石碑を建立し"(善悪草園生咲分)
直侍墓 2005
中山式快ゆ器本社 なかやましきかいゆきほんしゃ メカニカル・ボーイ(立円丈:13) 1件1題 (東京1件) 荒川区南千住6-56 中山式産業株式会社の本社は南千住にある.4つとか6つのぐりぐりした突起が飛び出した快癒器の上に寝そべると,自分の体重でツボが刺激されるという,画期的な指圧器で有名.一つ間違うと拷問のように痛かった.屋上にあがっている看板を見ると,快癒器の裏は中山式腹巻となっており,腹巻も主力商品らしい.東京駅八重洲口のビルの一等地にもネオン看板があがっていた.
"バイクは、三ノ輪を過ぎ、中山式快ゆ器本社あたり、突然スピード・ダウンした"(メカニカル・ボーイ)
中山式産業株式会社 2005
千住の天王 せんじゅのてんのう 無学者論(講明治大正3:17) など 9件3題 (東京9件) 荒川区南千住6-60 → 北村辞典.素戔雄神社.境内にある夜光を放ったという瑞光石は,小塚原の起源という.区もよほど重要と考えているらしく,瑞光小学校が3つもある.芭蕉矢立初めの地として碑が建っている.素盞雄大神の祭礼,6月3日の天王祭はキュウリを奉納することで有名.団子天王(台東区),河童天王(品川区)とセットで落語に出てくる.氏子たちの手ぬぐいの中央に瑞光石,奥の本殿は"蘇民将来子孫也"と書かれた幟で囲まれている.
"天皇にも色々あるが天智天皇と千住天皇とは違う"(無学者論)
素戔雄神社 2021
熊野権現 くまのごんげん 後開榛名の梅が香(角川円朝5:04) 1件1題 (圓朝1件) 荒川区南千住6-70 → 北村辞典.熊野神社.隅田川に近くやや奥まったところに鎮座する.弘化2(1845)年の手水鉢がある.いつも木戸が閉まっていたが,アルミ門扉に替わった上,立ち入りできないようになってしまった.
"三河島田圃を横に突っ切り、熊野権現の裏手から千住の大橋際へ来ましたが、まだ夜が明けきれません"(後開榛名の梅が香)
熊野神社 2009
千住大橋 せんじゅおおはし もう半分(弘文志ん生2:09) など 21件11題 (圓朝5件, 東京16件) 荒川区南千住〜足立区千住橋戸町 → 北村辞典.奥州街道,隅田川に架かる.ここばかりは渡船ではなく,架橋が許されていた.今の鉄橋は昭和2年のもの.芭蕉「奥の細道」矢立初めの地で,橋詰と素盞雄神社に句碑がある."行春や鳥啼魚の目は泪".大橋をはさんでの南北の住民による綱引き神事は力が入っていた.「もう半分」の一杯飲み屋で金をだまし取られた老爺は,千住大橋からドボンと身投げする.ここと永代橋の設定がある.
"追いかけてまいりますと千住の大橋。橋の中央にそのお爺さんが、手を合わしている"(もう半分)
千住大橋 2009
榛樹山 はんのきやま 時雨の笠森(聚栄堂 (1889)) 荒川区町屋1 隅田川右岸.荒川第五中学校あたりを,はんのき山と呼んだ.校門脇に説明板がある.ハンノキは,湿地に生えるひょろっとした高木.学校開放日に校庭の奥まで入ってみたが,ハンノキは見当たらなかった.
"千住の大橋から二町ばかり上へ参りますと榛樹山と云ふがあります"(時雨の笠森)
榛樹山あたり 2019
焼場 やきば 貸切バス(新風金語楼3:38) など 5件5題 (東京5件) 荒川区町屋1 「子別れ」の上,山谷の弔い等に出てくる山谷の近くの焼場ということで,現在の町屋斎場の位置とした.小塚原の焼場が,1887年に日暮里火葬場に移り,さらに1903年町屋火葬場に合併した.日暮里火葬場は圓朝が荼毘にふされたところ.町屋斎場の敷地すみに,地蔵尊とともに石の標柱が保存されている.
"あれは名代の日暮里の火葬場でございます。見学参考お楽しみに、一度はいってお楽しみを"(貸切バス)
日暮里火葬場・町屋火葬場門柱 2006
三河島 みかわしま 鏡ヶ池操松影(角川円朝1:03) など 32件20題 (圓朝4件, 東京28件) 荒川区東日暮里,荒川あたり → 北村辞典.戊辰戦争の戦地あるいは三河島菜の産地として登場する.殿さまに菜を進上する小噺で,下肥を調味料にしても風味は増さない.三河島菜は,漠然と青菜のことだと思っていたが,白菜に似た独特の形をした特産で,漬け物にした.1962年におきた三河島事故は,死者160名を出す列車衝突事故.漫才師の栗友一休(地下鉄漫才の春日三球の相方)が亡くなっている.慰霊碑は浄正寺(荒川3-53)にある.
"元仲の後ろにつき大橋を渡り、三河島田圃の出口にある溝の所まで来ると、板橋があります"(鏡ヶ池操松影)
三河島事故慰霊碑 2009
芋坂の団子 いもざかのだんご 地獄旅行(講明治大正2:27) 1件1題 (東京1件) 荒川区東日暮里5-54 羽二重団子.文政2(1819)年創業で,今もしっかり営業中.甘みを控えた餡と焼きの2種類のやや平たい団子で,素朴な味わい.漱石の「猫」にも登場する.最近いろいろな所で買えるようになってきた.
"芋坂の団子なども手近にあるし"(地獄旅行)
羽二重団子 2005
日暮里 にっぽり 心中時雨傘(角川円朝7:05) など 20件17題 (圓朝10件, 東京10件) 荒川区西日暮里 → 北村辞典.道灌山つづきの崖地からの眺望は,日暮らし飽かず眺むると称揚された.
"慶応元年の十一月二十一日に、日暮里は花見寺の前、お諏訪様の境内にございました心中のお噂で"(心中時雨傘)
日暮里夕景 2021
延命院 えんめいいん 菊模様延命袋(金松堂 (1892))など 荒川区西日暮里3-10 法華宗延命院.「菊模様延命袋」は,享和年間の延命院事件をベースにした創作人情噺.美貌の日当が大名女中と関係した上,残酷なる蓮華往生を企て,老人の死に金をむさぼろうとする.日当は,尾上菊五郎の隠し子という設定.事件の首謀者とされる,日潤の供養塔があり,尾上菊五郎の名が刻まれた線香立てがあるのは,皮肉な感じがする.延命院境内の大椎は,樹齢600年をこえるという巨木.
"谷中に延命院という富士派法華のお寺さまで日当という坊さんが御殿女中を引き入れました"(菊模様延命袋)
延命院の大椎 2019
延命院:七面堂 しちめんどう 恋廼緋鹿子(駸々堂 (1891))など 荒川区西日暮里3-10 延命院内に現存する.身延山の七面大明神を勧請した.谷中七面前には,「真景累ヶ淵」のお園が奉公する質屋があった.小噺「七面堂」は,ここを舞台とすると特定されてはいない.夜中に押し入った泥棒が,七面様の力で動けなくなってしまう.このことから参詣人が押しかけ,七面堂は小金を貯める.それを待っていた泥棒が,ふたたび押し入って金をかっさらう噺.
"七面堂にお七の七つの時に書きました、松竹梅の額が上ッて居ります"(恋廼緋鹿子)
七面堂額 2019
南泉寺:市橋家墓 いちはしけはか 名人くらべ(角川円朝6:01) 1件1題 (圓朝1件) 荒川区西日暮里3-8 「名人くらべ」の巻末,実在する市橋,遠山家の墓所や戒名をあげて,虚構のお須賀(トスカ)の墓を真実めかしている.鏑木清方が実際に探しに行って,むなしく帰ってきて圓朝に笑われたという話が伝わる.臨済宗瑞応山南泉寺は,圓朝の義兄が修行した寺.浦賀奉行遠山景高や初代松林伯圓と,白浪物を得意として泥棒伯圓と呼ばれた松林伯圓(2)の墓(都旧跡)がならんである.
"大きな寺でございます。市橋様遠山様越前様の御位牌所がならんでございます"(名人くらべ)
市橋家墓所 2009
花見寺 はなみでら 心中時雨傘(角川円朝7:05) など 2件1題 (圓朝2件) 荒川区西日暮里3 → 北村辞典.別項の青雲寺,修性院,妙隆寺(修性院に合併して今なし)と北から並んでおり,いずれもツツジなどの花見客でにぎわった.救いのない人情噺の「心中時雨傘」のラスト,傘に書き置きして心中する場面.その文句は下のとおり.
"傘の裏に書いておけば大丈夫と、闇を探り書きの仮名文字で、わたくしどもはふうふもの、どうぞいっしょにうめてください"(心中時雨傘)
花見寺修性院 2021
青雲寺 せいうんじ 闇夜の梅(角川円朝7:05) など 6件4題 (圓朝6件) 荒川区西日暮里3-6 → 北村辞典.臨済宗青雲寺.花見寺の一つ,谷中七福神の恵比寿.滝沢馬琴の筆塚碑がある.
"丁度お梅が家出をしたその翌朝のこと、兄の玄道が谷中の青雲寺まで法要があって出かけた留守、竹箒を持って頻りに庭を掃いていると"(闇夜の梅)
青雲寺馬琴筆塚 2008
諏訪明神 すわみょうじん 名人くらべ(角川円朝6:01) など 4件3題 (圓朝3件, 東京1件) 荒川区西日暮里3-4 → 北村辞典.諏訪神社.諏訪の台としても出てくる.今でも東方の見晴らしがいい.隣接する浄光寺は雪見寺と呼ばれる
"谷中の道灌山の手前、諏訪の山中に張り込んでいて南泉寺の藪蔭へ追い込み、それから行方しれず"(名人くらべ)
諏訪神社 2008
道灌山 どうかんやま 因果塚の由来(角川円朝3:01) など 10件10題 (圓朝6件, 東京4件) 荒川区西日暮里4 → 北村辞典.江戸城開基,太田道灌の出城があったことにちなむ.日暮里の高台の北に連なる.本行寺(西日暮里3-1)にあった道灌斥候塚は失われたが,寛延3(1750)年の道灌丘碑が残る.なお,本行寺は月見寺の別名をもつ.
"外は田甫、その向こうに道灌山が見える。折しも弥生の桜時、庭前の桜花は一円に咲揃い、そよそよ春風の吹くたびに、一二輪ずつチラリチラリと散っておる"(因果塚の由来)
道灌山虫聴の図 2008
尾久 おぐ 菊模様皿山奇談(角川円朝4:01) 1件1題 (圓朝1件) 荒川区東尾久,西尾久 → 北村辞典.今は中距離列車の駅と車庫くらいしか思いつかないだろうが,1936年,阿部定事件が起きたのが尾久の待合だった.愛する男性を殺し,局部を切断して持ち歩いた猟奇的殺人事件.志ん生(5)演の,出獄してきた阿部定がチンチン電車の車掌になり,(切符を)"切らせていただきます"の艶笑小噺.
"常磐というのは全く松蔭の匿し名で、大蔵の家来有助が頼まれて尾久在へ持ってまいるとまでは調べました"(菊模様皿山奇談)
尾久を望む 2008
小台の渡し おだいのわたし 霊験(講談落語界, 10(4) (1921)) 荒川区西尾久3〜足立区小台1,2 隅田川を尾久から小台へ渡す.西新井へ行く主要路にあたる.1933年に小台橋が架かったことで廃止された.小台橋には,都電や花など,さまざまなレリーフが飾られている.渡し船らしいレリーフの背後には,お財布にやさしいあらかわ遊園の観覧車が見える.『講談落語界』に掲載された「霊験」は,新作落語と角書きにあるが,上方落語の新作「指南書」を東京へ移したもの.「指南書」では,琵琶湖を船で渡って近道するかどうか迷った男が,常に頼りにしている指南書の文句"急がば廻れ"に従って陸路を行ったために,遭難せず命拾いする.王子から西新井に行くのに,小台の渡しを避けて,遠回りになるが千住大橋を渡るという設定に変えている.確かに千住大橋を渡るのでは遠回りになる.現在は,隅田川を無事こえたとしても,その先に幅広い荒川が西新井への道をふさいでいる.1911年には荒川放水路の工事が始まっているので,この噺を自然に演じられるのは,明治時代までになる.
"西新井へ行くにわざわざ大橋へ廻つて参り、用を達して帰つて来ると小台の渡で、舟が顛倒(ひっくり)つて人死があつたと云ふ"(霊験)
小台橋レリーフ 2023

掲載 051012/最終更新 230901

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