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江戸川区   
当時、長唄の唄うたいでございますが、中山小十郎という人がありました。当時の名人といわれましてなかなか声もよし、女房をお俊といいまして夫婦仲もいいが、どういうわけですか子どもがない。どうかして子どもが欲しいというわけで…(中略)…平井村という……ここの聖天さまへご信仰で。
 (三遊亭圓生(6) 「中村仲蔵」)
  斎藤忠市郎ら編,『名人名演落語全集』 第九巻,立風書房(1981)

地点名 この1題・登場回数 位 置 備 考 写真と撮影年
葛西 かさい 法華長屋(騒人名作09:15) など 20件11題 (圓朝3件, 東京17件) 江戸川区など → 北村辞典.江戸川から江東区に至る広い地域.葛西の町名は江戸川区に残る.お囃子好きが集まった「囃子長屋」の葛西の馬鹿囃子.金町駅そばの葛西神社(葛飾区東金町6-10)に葛西ばやし碑がある.いつもの汚穢屋がやって来なくなったが,他宗の肥えくみに汲ませる訳にいかず,法華信心の大家が困るのが「法華長屋」という落語.
"何にしろ葛西の次郎兵衛がこないとなると、どうも困ったなア"(法華長屋)
葛西ばやし碑 2008
平井聖天 ひらいしょうでん 中村仲蔵(集英圓生3:10) など 3件2題 (圓朝1件, 東京2件) 江戸川区平井6-17 → 北村辞典.新義真言宗燈明寺.階段を上ったところに空中楼閣のように堂宇がならぶ.用例のように,中村仲蔵の懐妊にまつわり登場する.講談「桧山騒動」で相馬大作が津軽侯を殺害する場面でも.「月謡荻江一節」に出てくる下平井の渡は,墨田区立花と平井とを結ぶ,現在の平井橋あたりになる.
"平井村の聖天様を、たいへん夫婦で信仰しております。月に一度はかならずおまいりをしようというわけで"(中村仲蔵)
平井聖天燈明寺 2006
中川新橋 なかがわしんばし 東京大空襲夜話(実録噺「東京大空襲夜話」, 新日本出版社 (2009)) 江東区亀戸9〜江戸川区小松川3 「東京大空襲夜話」は,その演題名のとおり,演者の柳家さん八が体験した1945年3月10日の東京大空襲の話.幼いさん八を連れた一家は,すでに避難民でいっぱいの防空壕に入れてもらえず,中川新橋の下で一夜を明かす.路上に転がる屍体,蒸し焼きになった防空壕など,戦争の悲惨さを訴える.
"中川新橋、え、あそこ鉄の橋だからよ、あの下行きゃ何とかなる"(東京大空襲夜話)
中川新橋 2011
逆井 さかさい 化物(講明治大正5:68) 1件1題 (東京1件) 江戸川区小松川あたり 逆井の旧町名は消えた.逆井の渡(粟田口霑笛竹,後開榛名の梅が香)は,江東区亀戸と逆井を結ぶ.現在の逆井橋あたりになる.
"その昔逆井のわきに百姓渡し権兵衛さんとおっしゃる渡し守"(化物)
逆井橋 2005
小松川 こまつがわ 片棒(青金馬:09) など 9件5題 (圓朝1件, 東京8件) 江戸川区小松川,東小松川,西小松川町あたり → 北村辞典.荒川放水路の開鑿と中川の流路変更によって分断された地域.鷹狩りに来た将軍吉宗公が汁に入ったこの菜を誉め,小松菜の名を与えた.小松菜屋敷こといづみ屋は,江戸川区中央4-5にある.隣の香取神社には,小松菜ゆかりの里と小松菜産土神の碑がある.赤螺屋の大旦那の葬式に,お囃子連中が勢揃い.
"葛西、小松川、佃、神田囃子の腕こきの連中を頼んでまいりまして"(片棒)
小松菜屋敷あと 2020
鹿骨 ししぼね 皿屋(講明治大正6:47) など 3件3題 (東京3件) 江戸川区鹿骨あたり → 北村辞典.用例には獅子骨とあるが,鹿骨(ししぼね)と書く.お目見え(講明治大正7:25)では猪骨と書かれている.鹿見塚神社に,鹿骨発祥地の碑がある.鹿島大神が常陸から奈良へ向かう途中,従っていた鹿がここで斃れたという.
"わしは東葛西の獅子骨村チウところでがす"(皿屋)
鹿骨発祥の地碑 2005
小岩 こいわ 鏡ヶ池操松影(角川円朝1:03) など 6件4題 (圓朝4件, 東京2件) 江戸川区北小岩,東小岩,南小岩,西小岩 東西南北に新小岩まであって茫洋とした印象.江戸川をはさんで,佐倉道の小岩,市川関所があった.江戸川駅南に道標などが残っており,渡船場の常燈明は宝林寺(北小岩3-23)に移設されている.
"田舎がいいから、ある人の世話で葛西の小岩村の文吉という者の方へやりました"(鏡ヶ池操松影)
市川渡船常燈明 2005
行徳の渡 ぎょうとくのわたし 八景隅田川(角川円朝7:01) 1件1題 (圓朝1件) 江戸川区江戸川3〜千葉県市川市相之川1 江戸川区今井から千葉県の行徳へ渡す,今井の渡しのことだろう.1912年に今井橋が架けられて廃止になった.現在の今井橋から見ると,旧橋の水除けらしい木杭が見える.江戸時代は,江戸への客を渡すことは禁じられていた.正保元(1644)年,駆け落ちものが禁を破って今井側へ渡ろうとしたことから,船頭家族含め5名が磔になった.供養の石地蔵が建てられ,ねね塚と呼ばれていたが,洪水で地蔵は失われたという.
"名におう三里という道のりでございますから、行徳の渡し手前へ着きましたのが、五つ半ででもございましたろう"(八景隅田川)
今井の渡あと 2023

掲載 051012/最終更新 230901

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